旧日向家熱海別邸に隣接して建築家・隈研吾氏の設計した海峰楼がある。氏はこの設計に当たって現地に訪れた際旧日向家熱海別邸を訪れ語った記事を紹介する。

次にご紹介するのが、熱海の「水/ガラス」という作品なのですが、その前に隣に建っている家について説明しなくてはなりません。

隈 研吾(WEBより)

その古ぴた日本風な建物は、ブルノ・タウトという建築家が 設計した建物です。ブルノ・タウトは、二十世紀はじめのドイツの建築家です。彼は1933年に日本に来ました。その年はナチスが政権を取った年で、タウトはナチスに追われて日本に逃げてきたわけです。日本に逃げてきて住宅を二軒、この熱海の家ともう一軒東京につくりました。この熱海の「日向別邸」という家が彼はとても気に入ってましたが、ところが日本人はこれを見ても全然よいと思わなかったのです。ドイツ人がやってきて、日本に媚ぴて畳を使ったり、深い庇を使ってみたりして、日本趣味の変なものをつくったというふうに、さんざんの評判でした。その後彼が亡くなったときの追悼の会でも、まだこの建物は悪口をいわれたというくらい評判が悪かった。どうしてそんなに評判が悪かったかといいますと、当時日本ではル・コルビュジエ風の白く輝く形態こそがモダンであると評価されていたんです。1933年というと、ル・コルビュジエが「サヴォア邸」をつくったり、ミース・ファン・デル・ローエが「バルセロナパビリオン」をつくった直後でした。当時の日本ではそんなヨーロッパの形態主義、外から見てかたちがきれいなものの評判がよかったのです。
それに対してブルノ・タウトは、彼らはフォルマリズムだと批判していたわけです。ル・コルビュジエとかミース・ファン・デル・ローエはかたちのことしか考えていない。そうじやなくて、自分は体験とか意識を考えている。最も自分が興味があるのは建築の中に入ったときに外の自然をどう感じるかだ。その人間と自然の関係にいちばん興味があるというふうに、主張していたわけです。

彼が日本に来て桂離宮を訪ねたときに、これこそ自分が求めていたものだと感じたわけです。そして、桂の形態には、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエのようなシャープさはないけれども、人間と自然との関係でいうと、これは世界的大傑作だと桂離宮のことを褒めた本を書いています。その直後に彼はこの家の設計を始めるんです。この「日向別邸」の設計で、彼は桂離宮のような自然と人間との関係をつくり出したいと考え、大きな開口部をとり、建物全体が縁側みたいな(彼は特に桂離宮の縁側のことを気に入っていた)建築をつくった。 深い庇が出ていて、庇と縁側で自然と人間との間に関係をつくろうとしたわけです。ところが日本人から見ると、それはル・コルビュジエとかミース・ファン・デル・ローエとは全然違う日本趣味の変なものに見えたということなのです。

私のこの「水/ガラス」という作品の敷地は、そんなタウトの設計した「日向別邸」の隣でした。タウトの作品が熱海にあることも知らなくて、この建物の設計を依頼されて隣に建っていることを知ったときにはたいへん驚いた。ここでも僕は、せっかくタウトの隣なんだから縁側をやろうと思ったんですね。それも水の縁側をつくろうと考えた。

隣接する海峰楼

なぜ水かといえば、ひとつの理由は、普通の縁側ですと、手すりなどの雑なものが出てきますが、水の縁側だったらすっきりするのではないかと思ったのです。そして、向こうの海とこの建物の水の縁側が一体化してくると、中にいる人間は自分が海の中に浮いているような自然との一体感を味わえるのではないかと考えました。

縁側とともに庇も深く出そうと思いました。この深い庇も建築家の中では御法度に近い。ガラスで建築をつくる人は多いけれど庇を出すということはあまりない。そういう庇というものをもう一度見直してみようと考えたのです。
ですから先ほどのタウトのものとは全然違って見えますけれど、考え方は自分がタウトになったつもりでつくっています。

朝には太平洋が霞んでいて、水の縁側と、それから室内のガラスのテーブルまで、境界がなくなって、すべてが溶け合っていきます。そういうかたちが溶け合った曖昧な状態というのが面白いと思いました。

庇はステンレスのルーバーを深く出しています。いちばん深いところで四メートルくらい出ていますけど、ルーバーにしてあるのは、暗い影をつくらないで光が粒子状に飛び交う状態をつくりたいと思ったからです。

東西アスファルト事業協同組合講演会
物質性とサイバースペース  より

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