杵屋六左衛門14代目
明治〜昭和期の長唄三味線方・唄方 杵屋宗家(14代目);長唄協会名誉会長;東京音楽学校教授。
明治33(1900)~昭和56(1981) 東京都中央区生まれ
主な受賞名〔年〕文部大臣賞〔昭和31年〕「能阿」,毎日演劇賞〔昭和32年〕「母を恋ふるの記」,毎日映画コンクール音楽賞〔昭和33年〕,日本芸術院賞(第17回)〔昭和35年〕経歴明治44年14代目喜三郎を名乗り、大正5年父のあとを継いで長唄宗家14代杵屋六左衛門を襲名。若くして代々の三味線方から唄方に転向し、4代目吉住小三郎に師事。昭和6年まで帝国劇場で活躍し、9年から東京音楽学校教授を務め、戦後は長唄協会会長などを務めた。35年芸術院賞を受賞、40年に芸術院会員に選ばれ、49年には人間国。また杵屋の家元として派内をまとめる一方、「能阿(のあ)」「母を恋ふるの記」「壇の浦」など400近い新作を作曲、映画「楢山節考」の音楽も手がけた。(出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)/20世紀日本人名事典について)
旧杵屋六左衛門別邸
吉田五十八(よしだいそや1894-1974)は、東京美術学校の図案科二部で建築を学んだ。卒業後ヨーロッパの建築を見て、その伝統の力に圧倒され「日本人は日本建築によって西欧の名作と対決すべきだ」と、数寄屋建築の近代化に力を注いだ。
昭和11年(1936)に吉田の代表作といわれるこの別邸が熱海に完成した。「建築家が設計しだしたのは、私が数寄屋建築をやりだしてからですよ。昔は日本間に建築家は手をつけないもんでした」と解説している。
吉田はタウトについて、「一昨日の朝ブルーノ・タウト氏に就いての放送をはからずも聞いて、ほんとうに感慨無量の感に打たれた。日本人は日本固有の建築を再認識してもらいたいと同時に、タウト氏を再び思い出して頂きたい」(昭和26年)と記した。
屋根の上に急な勾配の茅葺(かやぶ)き屋根をのせ、妻側に瓦葺きの袖壁をつけた形式の民家であり、大和棟とも高塀(たかへ)造りとも言われ、奈良県などに見られる。
現在は、茅葺きではなく、瓦葺きに変えられている。
建物に入ると、まず玄関(右の写真)があり、そこから左の部屋に行くと応接間(下段左の写真)がある。
中心にあるのが居間(下段中、右)であり、 “新興数寄屋造り”と高く評価され、日本建築に大きな影響を与えたものである。
【玄関】
まず竹で作られている珍しい踏込みが見える。田舎家風の演出である。しかし客は左側に曲がり応接間に入るのである。
この建物は、長唄の宗家である杵屋の十四代目六左衛門への贈物なのである。
【応接間】
写真の右手にあるのが玄関からの戸である。玄関の土間の床面と同じ高さであり、土足で入る。以前は絨毯敷きであり、テーブルと椅子が置かれていた。
天井に丸太が架けられているのが見える。玄関同様に民家風の造りである。
【居間の左】
この空間で、素朴は洗練に急転する。
モダンな床の間である。床柱も床框(とこかまち)もない。柱も壁の中に塗り込められ、見えない。長押もない。じつにスッキリとした空間が現出している。
ちなみに吉田自身は長唄の名手だった。
【居間の右】
西洋的なあるいは現代的な美意識が日本建築になっている。
吉田五十八の代表作であり、熱海の至宝とも言える建築である。
『饒舌抄』吉田五十八(新建築社)、『建築家 吉田五十八』砂川幸雄(晶文社)、『歴史遺産 日本の洋館 昭和篇Ⅱ』