丹那トンネル

丹那トンネルの開通は熱海の発展に大きく貢献した。

 

東海道線は日本の大動脈であり、明治22 年(1889)には新橋-静岡間が開通した。しかし東海道線は当初、国府津(こうづ)から御殿場を経由して沼津に至る路線であった(現在の御殿場線)。

この路線は急勾配で難所であったため、国府津から小田原、熱海を経て、丹那盆地の下のトンネルを通り三島、沼津に通じる新路線が求められていた。大正7 年(1918)に7 年の完成予定で熱海口から工事が開始され、ついで三島口からも工事が始まった。
しかし見通しは甘く、事故も起こり、死者67 名を出す難工事となった。結局、完成まで7年の予定が倍以上の16 年を費やし、昭和9 年(1934)開通した。この顛末は、すぐれた記録小説である吉村昭著『

』に詳しく描かれている。

東海道本線熱海(あたみ)―函南(かんなみ)間の長さ7804メートルの複線鉄道トンネル。
1918年(大正7)着工-(16年)-1934年(昭和9)開通。丹那トンネル開通前、東海道本線は御殿場(ごてんば)を経由しており、1000分の25の急勾配(こうばい)区間があって輸送の隘路(あいろ)となっていた。そこで最急勾配を1000分の10とする改良線が計画され、伊豆半島北部山地を東西に横断するこのトンネルが掘進された。丹那トンネルの開通により、東海道本線国府津(こうづ)―沼津(ぬまづ)間が11.6キロメートル短縮された。当初工期は7年であったが、多量の高圧湧水(ゆうすい)、温泉余土(温泉の熱湯によって変質した粘土。膨張性をもつ)、断層などのために難渋し、16年の年月をかけて完成した。
工事中の大事故は4回を数え、とくに殉職者を出した大事故は次の3回であった。(1)1921年(大正10)4月1日の東口990フィート(約302メートル)付近の崩壊事故では、33人の作業員が埋没され、16人が死亡、17人は8日間の生埋め後に救出された。門屋盛一、飯田清太(1889―1975)両氏の沈着な指導によるもので、当時の新聞に事故状況が詳細に報道されている。(2)1924年2月10日の西口4950フィート(約1509メートル)付近の事故では、16人の作業員が土砂に埋没し殉職している。(3)1930年(昭和5)11月26日、北伊豆地震により、西口1万0800フィート(約3292メートル)付近が崩壊、5人が埋没し、2人は救助されたが3人が殉職した。
トンネル工事中に、これらの大事故を含め合計67人の工事殉職者を出し、日本の鉄道トンネル工事史上、最大の難工事であった。[藤井 浩]